道徳的言明はなぜ感情の表現にすぎないか

「道徳的言明は感情の表現である」というのはエイヤーが「言語・真理・論理」という本で言ったことらしいのだけど、未読なので(おい)エイヤーが何を言いたかったかはよく分からない。

ただ、なるほうどそうだなあとという個人的な感じはある。「道徳的言明」が道徳的言明たり得るのは私がそれに従わなければならない、という「感じ」を伴わなければならない。一方で、他人がなにか道徳的言明(たとえば「肉を食べてはいけない」とか「国を愛さなくてはならない」とか)をしたとしても、だからと言って単にそれだけで私がそれに従わなくてはいけない気はしない。私にとっては誰かがそういうことを言ったという事実しかない。もし言明が何かを表しているのだとすると、それは言った人の好悪だろう。好悪というのは体系的であり得るし、理由の説明もついているかもしれないけれど、つきつめればその人の感情を体系化したものでろう。タピオカミルクティーが好きだ、という主張にはいろいろな理由がついてくるだろうし、台湾スイーツの体系のなかで説明されるかもしれないけど、やっぱりその人の好悪の問題である以上、その人の感情の表現だろう。

というわけで少なくとも他人の道徳的言明はその人の感情の表現でしかないような気がする。とすると、道徳に関してのどんな言語表現も結局感情の表現としてしか解釈できないだろう(純粋な私的な言語は言語から除外するとして)。道徳とか倫理というのは言語表現も説明も抜きでただ「黙って」なされるように思う。

 

価値と事実の峻別

論理実証主義の主張の一つとして「価値言明と事実言明の峻別」がある。そしてこの区別は事実言明にも価値判断が含みとしてなんらかの形で主張されている、という議論によって論駁された、と広く思われている(逆に価値言明にも事実言明が含意されている可能性はあまり議論されない気がするけどなぜだろう)。

だけど、「峻別」が不可能になったのは「言明」の問題にしてしまったからではないかと思う。「事実」と「価値」そのものの存在論的なステータス自体が違うことは明確に思える。「事実」と「事実」の間には因果的な関係が成り立ちえる。一方、「価値」と「事実」の間には因果的な関係はあり得ない。あるとすれば間に行為者の意図(ある「価値」を実現しようとする意図)が働かなければならない。

雑な議論だけど、20世紀の思想は「言語的転回」によって言語にこだわりすぎて、それが言及する対象の性質というものを言語の問題にしてしまうという欠点がある。その後、分析哲学では「形而上学的転回」が起きて言語哲学の重要性は下がっていったということはあまり知られていない気がするな。

ニーチェの遠近法について

同じものも違う角度から見ると違うように見える。このことが相対主義の例えとしてよく引き合いに出されるのだけど(同じ世界も見方が変われば違うように見える)、例えとしてはともかく相対主義の正当化としてはあまりうまくいっていないだろう。確かに同じものも違う角度から見れば違うように見えるが、それは「見え」の話であって、幾何学を使えば3次元の物体を正確に記述して、ある角度からはどのように見えるかも正確に予測することができる。「見え」だけが事実だと思う限り事実は相対的だが、「見え」の背後にある3次元の物体を想定すれば、事実は視角に相対的ではない。(この相対主義への批判はディヴィッドソンの「概念枠という考えそのものについて」の前半で持ち出されているものだ)。

しかし、ニーチェがいう「遠近法」の例えはもっと別のことを言っているように思う。遠近法を用いた絵画は、絵具の配置で存在しない3次元の物体があるかのように思わせる。同様に、人間は「仮象」を配置して背後にある「真理」があるかのように思わせる(「真理は人間がそれなくしては生きていくことができない誤謬である」)。そして、多分ニーチェはそういう真理という「背後世界」を想定することが結局「仮象」に過ぎない人生を十分生きることを妨げるのだ、と言っている気がする。

 

価値相対主義に対するあまりうまくいかない反論

確かAeonマガジンで読んだと思うのだけど(正確な出典は見つけられなかった)、ある倫理学講師は倫理学の授業の初めに、倫理が相対的だ、あるいは存在しないと思う学生に手を挙げさせるそうだ。そして手をあげた学生を教室から追い出してしまう。そこで学生が抗議すると、講師は学生たちに、もし倫理が相対的なら彼らが抗議する基盤がないことを指摘する。そして、倫理を議論する基盤としての倫理学へと導入していくのだそうだ。

さて、この価値相対主義への反論はうまくいっていないと思う。学生たちは倫理は存在しないと思っているけれど、講師は存在すると思っている。そして多分講師の倫理規範には、学問的な場ではあらゆる主張が公平に取り上げられなければならない、が含まれているだろう。もちろん講師は相対主義者は倫理学の授業を受けるべきでない、と本気で思っている可能性もあるが、ここでの講師の振る舞いは相対主義を論駁しようとするものだから、もしそうだとすると論点先取だ。すると、少なくとも学生たちは講師の自己矛盾を突いていることになる。

あまり練れていない見解なんだけど、倫理はやはりどのような事実でも存在者でもあり得ないという意味で存在しないと思う。ウィトゲンシュタインが言うように「どんな道標も誤解されうる」から。もちろんウィトゲンシュタインは「通常の状態で機能する道標が道標なのだ」みたいなことを言っていて、これが常識倫理のようなものなのだろう。

Problems of Empirical Software Engineering Studies

Empirical studies are nowadays, mainstream approaches in software engineering research. This can be witnessed by the Google Scholar journal/conference ranking among the “Software System” subcategory. According to the ranking obtained on Jan 10, 2020, The journal “Empirical Software Engineering” has a higher ranking (7th) than “IEEE Transaction on Software Engineering” (8th), which is traditionally considered as the best journal in this field. Further, many presentations at other top conferences (ICSE, FSE, and ASE) are empirical natures and an emerging conference, MSR (“Mining Software Repositories”), precisely aims to empirical studies of software repositories which now wildly available thanks to Github and other alternatives.

So, what is wrong with this? Surely, Science is a study of empirical nature, isn’t it? “Induction” from the empirical data is a primary method of Science, isn’t it? However, the idea that Science is based on mere “induction” is a misconception.

Suppose we have data which suggest such, and such code metrics correlate the number of bugs. But is this correlation a fundamental/universal law? The correlation may depend on a particular programming language, programming paradigm, methodologies vogue only a handful of years, programming communities, application domains, etc. Of course, we can empirically study the factors which affect the correlation we just discover. However, whatever the results of further empirical studies are, we still have further doubt about universalities of these studies. This shows mere “induction” from data cannot prove any useful law.

Usually, most of (empirical, but not limited to) software engineering studies pose research questions based on a hypothesis. Then, these research questions are (in most cases) investigated empirically. For example, if someone thinks the length of function names affects the number of bugs, data from, say, a bug repository of Java programs are empirically studied, and the hypothesis is tested by statistical mean.

Unfortunately, a hypothesis considered by software engineering research is often “one-shot” in nature and does not form a systematic theory. Being a one-shot hypothesis, we cannot be sure about its scope, as stated above. Examining Java code repositories may not be sufficient, but there is no way to tell because of no background theory. Even a systematic theory is presented, they are not like theories of other fields of engineering in which rigorous mathematical formulations are employed. Therefore, rigorous verification nor falsification of a theory proposed is almost impossible.

Is there no way to improve this situation? I don’t think so, because the software has rich background theories. Software (development) has two aspects. The first aspect is that it is about computer programs. We have mature and rich mathematical theories of programs and their computation. Further, software development is all about the human being. Therefore, we can employ phycology, sociology, economics, and other social science and humanities to study software development.

An interesting (so I think) possibility: code mutation is widely used for a “proxy” of bugs introduced by human programmers. It would be interesting if we investigate the effects of code mutation on program behaviors theoretically, so we no longer rely on empirical data to understand the results of code mutation. Then, the task remained is empirically test the hypothesis that code mutation has similar behavior to human bugs.

科学に関する虚構主義と祖先以前性の問題

本論では、カンタン・メイヤスーが著書「有限性の後で」(人文書院2016年)で提起した「祖先以前性の問題」を、科学に関する虚構主義への批判と解釈し直すことを試みる。

メイヤスーの考える「相関主義」と祖先以前性の問題

メイヤスーは現代哲学を広範に覆うとされる「相関主義」を批判し、人間その他の認識主体の存在によらず成立する事実があることを「思弁的」に論証しようとする。相関主義とは

私たちは主体との関係から分離された対象「それ自体」を把握することは決してできないと言うのみならず、主体はつねにすでに対象との関係に置かれているのであって、そうでない主体を把握することは決してできないということも主張する。

(同p16)

立場であり、カントの批判哲学、超越論的現象学、生活世界論などを包含するとされる。本当にこれらの哲学上の立場がメイヤスーのいう相関主義に当てはまるのか議論があるが、本稿ではその問題には関わらない。しかし、「ある種の事実の成立にはかならず認識主体の存在が前提となっており、そのような事実が何らかの意味で本来的な事実である」と相関主義を定式化すれば、上記のような哲学的立場が通俗的に流布されるときに使われがちなまとめとして、また厳密には主張されてはいないかもしれないが背景にある考えとして、それほど的外れではないと考える。

さて、メイヤスーは相関主義を「祖先以前性」という概念を用いて批判する。ある事実が祖先以前的とは「人間という種の出現に先立つ ー また、知られうる限りの地球上のあらゆる生命の形に先立つ ー 」(同p24)ことを言う。現代の科学は例えば「地球は46億年前に誕生した」などの、祖先以前的な事実に関する言明を大量にしているのだが、そのような言明を相関主義は正当に解釈することができない、という批判である。

メイヤスーが指摘するように、ほとんどの相関主義者は科学の言明の正当性を受け入れる。しかしそれは、分析哲学的な言い方をすると、虚構化オペレーターの内側に科学の言明を入れることによってである。

「出来事Xは人間の出現より何年も前に早く起こった」。(略)相関主義者の哲学者はーおそらく心の中で行うだろうがー簡単な遺言補足の但し書きのような、いつも同じものを、こっそりと文の最後につけ加えるだろう。すなわち、出来事Xは人間の出現より何年も前に早く起こったー人間にとっては(さらに言えば、科学者にとっては)

(同p29)

つまり、相関主義者は「科学というフィクションの中では『地球の誕生は46億年前であった』」と科学言明をパラフレーズすることにより、それを受け入れる。

しかし、これをメイヤスーは受け入れない。理由の一つは分析哲学で言われるところの「態度問題」である。科学者はフィクションを探求しているわけではなく、事実を探求しているのであり、そうでなければ科学の意義を説明できない。

しかし本論ではこの議論ではなく、同p37以降に展開される相関主義者のメイヤスーへの反論を論じるなかの議論を取り上げ、それをより形式的な形にまとめたい。

認識主体の存在の必然性と偶然性

まず、相関主義の主張を明確化しよう。メイヤスーはテキストにおいて明示していないが、相関主義者はなんらかの「直接的・本来的に有意味な言明の集合」を想定していると考えられる。ただし、ここで「言明」は広い意味での言明であって、実際に言語記号に基づいている必要はない。相関主義は、本来的に有意味な言明Pについて

  • Pならば認識主体Iが存在してIがPを認識する(相関主義の公準

を主張する。メイヤスーの上掲p16の引用ではPの把握だけが問題にも見えるが、それでは主張が自明になってしまうので、このようにまとめる。

これに対して、科学言明の多くは「直接的・本来的に有意味な言明の集合」に含まれてはおらず、ただそれらから何らかの意味で構成されたり検証されたりするだけの「概略的な所与」(同p30)である。本論では簡単のためPがSに含まれていると考える。というのも、科学は直接・本来的に有意味ではないかもしれないが、最終的には我々にとってのある種「直接的に与えれた」所与についての何らかの言明を行うと考えられるからだ。相関主義者は科学の主張を受け入れるから

  • 本来的に有意味な言明Pを科学が主張するならば、P(移行原理)

を受け入れる。

さて、祖先以前的な言明、例えば「生命はRNAの偶然的な組み合わせから発生した」を考えよう。メイヤスーによればこの言明のポイントは、この言明の持つ所与からの「隔たり」でもなければ、同時にこの事実を観測する主体が存在しなかったことでもなく、「所与それ自体が非存在から存在へと移行する時間」(上掲p41)という問題を提起することである。とはいえ、このメイヤスーの言明は簡単には理解しがたい。というのは、我々はすでに所与が存在している時点に生きているからである。そして、相関主義者は、所与が存在する以前には、厳密には事実は存在しなかったと考えている。ここには矛盾はないように思える。

我々はこう考えたい。所与それ自体が非存在であった時があったすれば、そもそも所与は与えられなかった可能性があるということである。例えば、ビッグバン時の時空の膨張速度がわずかに違えば、認識主体はこの宇宙に存在し得えなかった、といったような。我々は、祖先以前性の問題は、それが過去に関わるからではなく、認識主体が偶然的な起源を持つこと、よってその存在は偶然的であることをしめすことだと考える。

さて、科学が認識主体の存在が偶然的であることを主張することは、どのような帰結を持つだろうか。もし認識主体の存在は直接的に把握可能な事実であると思われるので、移行原理は認識主体の存在が偶然的であることを示すように思われる。

その一方、相関主義の公準はトートロジーであれ何であれ必然的な事実が存在する限り、認識主体の存在は必然的であることを示しているように思われる。よって、相関主義の公準と移行原理は両立し得ない。

科学の様相と根源的な様相

この結論から逃れる一つの方法は、偶然性や必然性にかんする言明には移行原理は適用できない、とすることだ。科学における偶然性や必然性は、本来的な意味での偶然性や必然性とは関係ない、と考えると上記の問題は回避できる。

しかし、この解決は行き過ぎた結論を導くように思われる。例えば次のような科学的言明を考えよう。

  • 高電圧電流に触れると死亡する

この言明は厳密含意であり、必然性を述べている。しかし、偶然性や必然性についての言明に移行原理を適用しないのだとすると、この言明から

  • この(今目にしている)高圧線に触れると、死の危険がある

という推論を行うことができない。それどころか、なにか本来的に有意味な必然性命題がある限り、相関主義の公準から認識主体の存在が必然的であることが導かれる。私は高圧線に触れても死なないのである。この立場は、メイヤスーの言うところの「主観的観念論」(同p97)である。

このような立場に対するメイヤスーの批判は同p46以下で展開されている。一言でまとめれば、主観的観念論は超越論的主観性の「受肉」の可能性の問題を引き起こす。次のような言明を考えよう。

  • (かくかくしかじかの)脳活動が行われていれば、その生物は超越論的主観性を持つ

これはやはり厳密含意である。しかし移行原理が適用できないことから、ここから

  • 人間は超越論的主観性が存在する

を導出することができない。

これは一見、反自然主義者であれば好ましい状況であるように思われる。しかし、問題は移行原理が適用できないことにより、両者が全く無関係になることである。したがって、意識活動に相当する脳活動が存在するにもかかわらず、超越論的主観が存在しないこともありえてしまうし、頭におがくずが詰まっているのに超越論的主観性がある、という状況もありえる。

したがって、メイヤスーの祖先以前性の問題は相関主義者にたいして、少なくとも様相に関わる移行原理の明確化という課題を提起しているように思う。

まとめ

本論では、メイヤスーが提起する「祖先以前性の問題」についてのある種の解釈を提起した。この解釈では、メイヤスーの議論は認識主体の存在を必然的に含意する「相関主義の公準」と、認識主体の存在の偶然性を含意する「移行原理」からなる。この2つが両立しないことから、科学に対して虚構主義的な解釈を行う相関主義を批判した。さらにこの問題を回避するため様相命題が移行原理の対象にならない、という仮定を検討し、この問題は超越論的主観性の受肉の条件を説明できない、という難点がある。

思弁的実在論は科学の基礎を与えるか II – 無矛盾律の導出について

フランスの哲学者メイヤスーの「思弁的実在論」が、主張されているように現代の科学の基礎を与えるものであるかどうか3回に分けて考える。今回は「事実性の原理」から「無矛盾律」を導くメイヤスーの議論を考え、「事実性の原理」が自己論駁的ではないか、という疑問を提出する。

以前の投稿

  1. 思弁的実在論は科学の基礎を与えるか I ‐ 事実性の原理の導出について

事実性の原理から無矛盾律へ

まずメイヤスーの議論を確認する。事実性の原理は次のようなものだった。

あらゆる事物そして世界全体が理由なしであり、かつ、この資格において実際に何の理由もなく他のあり方に変化しうる

(カンタン・メイヤスー「有限性のあとで」p94)

メイヤスーはここから、次の「非理由に関する2つの存在論的言明」を導く(同p115)。

  1. 必然的存在者は不可能である。
  2. 存在者の偶然性は必然的である。

そして、矛盾した存在者がこの言明に反することを主張する。というのも、矛盾した存在者Xがあるとすると、Xはあらゆる矛盾した性質が成立するから、もしXが存在しなくなったとしても、Xが矛盾していることによりXが存在していることも同時に導かれる。よってXは常に存在することになり、必然的存在者である。しかし、これは上の1.に反する。(同p119の議論を改変)

事実性の原理の自己論駁性

上記のメイヤスーの議論を明確化することは難しいと思うが、そのことにはとりあえず関わらないで、そのまま認めてしまうことにしよう。つまり、われわれは事実性の原理から無矛盾律が導かれると仮定する。

ところで、無矛盾律は必然的になりたつのだろうか?

もし必然的に成り立つのだとすると、これは事実性の原理に抵触する。と言うのも、無矛盾律も世界のあり方には違いないからである。事実性の原理によれば、世界のあり方はなんの理由もなく他のあり方、つまり無矛盾律が成り立たない世界に変化し得るはずである。

この難点を回避するには、2つの道があるように思う。一つは事実性の原理を存在論的言明に限定することであり、もう一つは無矛盾律の必然性を拒否することである。

存在論的言明に限定された事実性の原理

上記の事実性の原理の自己論駁性は、無矛盾律に事実性の原理が適用される、と考えたことから生じる。しかし、上記同p115ではメイヤスーは事実性の原理は存在についての原理であるかのように語っている。つまり、事実性の原理は必然的存在者を排除する原理であって、必然的命題を排除するわけではないと考えているようである。無矛盾律が何かの存在者の存在を主張するわけではないから、事実性の原理を存在論的言明に限定すれば、事実性の原理の自己論駁性は回避される。

しかし、存在論的言明だけでは十分な強さの無矛盾律を導くには不十分である。上記の無矛盾律の導出では、矛盾した対象はあらゆる性質を同時に持つとし、特に存在と非存在の性質を同時に持つとした。さて、「弱い」矛盾した対象Yを考え、Yは存在に関しては矛盾していないが、それ以外の性質についてはあらゆる矛盾した性質を持つとする。すると、Yに上記の無矛盾律の導出を適用することはできない。しかし、Yはほぼ矛盾した存在であり、このような対象が存在した状況を無矛盾律が成立しているということは難しいだろう。

なお、Yが性質Pとその否定を持つことから矛盾を導き、いわゆる爆発則からYの存在と非存在を同時に導くことが考えられるかもしれない。しかし、爆発則は無矛盾律を前提にしたものである。

無矛盾律の必然性

もう一つ、難点を回避する道がある。それは、無矛盾律が必然的に成り立つことを拒否することである。つまり、無矛盾律は今この世界では成り立っているが、次の瞬間には成り立たなくなり世界はカオスへと転落するかもしれない、と仮定する。

しかし、この仮定は上の1.に反する。というのも、1.は必然的存在者は不可能である、と主張している。よってどのような世界であっても、上の論証が成り立つ限り1.は無矛盾律を導いてしまう。つまり、無矛盾律は常に成り立つから必然命題である。

これを避けるには、必然的存在者はたまたま存在しないが、可能性としては存在する、と考えることはできる。しかし、必然的存在者が可能性としてのみ存在する、ということがあり得るだろうか。ある可能性のもとで必然的存在者が存在したとすると、それは必然的存在者であるからどのような状況でも存在してしまうのではないだろうか。

ややテクニカルだが、この疑問はS5という様相論理の体系では正当だ。S5の世界では、必然的存在者は存在する可能性があれば自動的に存在する。ただ、S5が成り立つかどうかは、メイヤスーが想定している必然性が何であるかに依存する。例えば、時間の問題に置き換えると、「時間にかかわらず存在する」といったものであればS5が成り立つが、「不壊性」のようなものであれば、不壊な対象がある時点で存在し始める可能性があっても、その時点以前では不壊な対象は存在しないかもしれない。

もう一つの問題として、そもそもメイヤスーの動機は祖先以前的な言明に意味を与えることだった。無矛盾律が必然的ではないとすると、これは可能だろうか。祖先以前的な言明を解釈するには、無矛盾律が人類が存在しないはるかな過去、人類が存在しなかったであろう世界線といったもの、要するに科学が言及するあらゆる事柄について無矛盾律が成り立つことが要求される。

すると、無矛盾律は無条件には必然的ではないかもしれないが、科学の領域では必然的である必要がある。これが事実性の原理の自己論駁を引き起こさないためには、事実性の原理が言及する必然性は無条件の必然性であり、科学の領域に関する必然性ではない、とするしかない。

しかしそうすると、今度は科学の領域においては無矛盾律の導出が機能しないことになる。というのも、無矛盾律の事実性の原理からの導出は、その領域において必然的な存在者ないし性質が存在しないことを前提にしていたからだ。これはメイヤスーの企てが失敗していることを示している。

まとめ

本稿では、メイヤスーの事実性の原理が自己論駁的ではないか、という疑いを考えた。また、この自己論駁性を回避する方法として、

  1. 事実性の原理を存在論的言明に限定する
  2. 無矛盾律の必然性を要求しない

の2つの方法を考えた。しかし、いずれの方法を採用したとしても、メイヤスーが要求するような、科学の基礎づけとなるような無矛盾律は得られないことを示した。