科学に関する虚構主義と祖先以前性の問題

本論では、カンタン・メイヤスーが著書「有限性の後で」(人文書院2016年)で提起した「祖先以前性の問題」を、科学に関する虚構主義への批判と解釈し直すことを試みる。

メイヤスーの考える「相関主義」と祖先以前性の問題

メイヤスーは現代哲学を広範に覆うとされる「相関主義」を批判し、人間その他の認識主体の存在によらず成立する事実があることを「思弁的」に論証しようとする。相関主義とは

私たちは主体との関係から分離された対象「それ自体」を把握することは決してできないと言うのみならず、主体はつねにすでに対象との関係に置かれているのであって、そうでない主体を把握することは決してできないということも主張する。

(同p16)

立場であり、カントの批判哲学、超越論的現象学、生活世界論などを包含するとされる。本当にこれらの哲学上の立場がメイヤスーのいう相関主義に当てはまるのか議論があるが、本稿ではその問題には関わらない。しかし、「ある種の事実の成立にはかならず認識主体の存在が前提となっており、そのような事実が何らかの意味で本来的な事実である」と相関主義を定式化すれば、上記のような哲学的立場が通俗的に流布されるときに使われがちなまとめとして、また厳密には主張されてはいないかもしれないが背景にある考えとして、それほど的外れではないと考える。

さて、メイヤスーは相関主義を「祖先以前性」という概念を用いて批判する。ある事実が祖先以前的とは「人間という種の出現に先立つ ー また、知られうる限りの地球上のあらゆる生命の形に先立つ ー 」(同p24)ことを言う。現代の科学は例えば「地球は46億年前に誕生した」などの、祖先以前的な事実に関する言明を大量にしているのだが、そのような言明を相関主義は正当に解釈することができない、という批判である。

メイヤスーが指摘するように、ほとんどの相関主義者は科学の言明の正当性を受け入れる。しかしそれは、分析哲学的な言い方をすると、虚構化オペレーターの内側に科学の言明を入れることによってである。

「出来事Xは人間の出現より何年も前に早く起こった」。(略)相関主義者の哲学者はーおそらく心の中で行うだろうがー簡単な遺言補足の但し書きのような、いつも同じものを、こっそりと文の最後につけ加えるだろう。すなわち、出来事Xは人間の出現より何年も前に早く起こったー人間にとっては(さらに言えば、科学者にとっては)

(同p29)

つまり、相関主義者は「科学というフィクションの中では『地球の誕生は46億年前であった』」と科学言明をパラフレーズすることにより、それを受け入れる。

しかし、これをメイヤスーは受け入れない。理由の一つは分析哲学で言われるところの「態度問題」である。科学者はフィクションを探求しているわけではなく、事実を探求しているのであり、そうでなければ科学の意義を説明できない。

しかし本論ではこの議論ではなく、同p37以降に展開される相関主義者のメイヤスーへの反論を論じるなかの議論を取り上げ、それをより形式的な形にまとめたい。

認識主体の存在の必然性と偶然性

まず、相関主義の主張を明確化しよう。メイヤスーはテキストにおいて明示していないが、相関主義者はなんらかの「直接的・本来的に有意味な言明の集合」を想定していると考えられる。ただし、ここで「言明」は広い意味での言明であって、実際に言語記号に基づいている必要はない。相関主義は、本来的に有意味な言明Pについて

  • Pならば認識主体Iが存在してIがPを認識する(相関主義の公準

を主張する。メイヤスーの上掲p16の引用ではPの把握だけが問題にも見えるが、それでは主張が自明になってしまうので、このようにまとめる。

これに対して、科学言明の多くは「直接的・本来的に有意味な言明の集合」に含まれてはおらず、ただそれらから何らかの意味で構成されたり検証されたりするだけの「概略的な所与」(同p30)である。本論では簡単のためPがSに含まれていると考える。というのも、科学は直接・本来的に有意味ではないかもしれないが、最終的には我々にとってのある種「直接的に与えれた」所与についての何らかの言明を行うと考えられるからだ。相関主義者は科学の主張を受け入れるから

  • 本来的に有意味な言明Pを科学が主張するならば、P(移行原理)

を受け入れる。

さて、祖先以前的な言明、例えば「生命はRNAの偶然的な組み合わせから発生した」を考えよう。メイヤスーによればこの言明のポイントは、この言明の持つ所与からの「隔たり」でもなければ、同時にこの事実を観測する主体が存在しなかったことでもなく、「所与それ自体が非存在から存在へと移行する時間」(上掲p41)という問題を提起することである。とはいえ、このメイヤスーの言明は簡単には理解しがたい。というのは、我々はすでに所与が存在している時点に生きているからである。そして、相関主義者は、所与が存在する以前には、厳密には事実は存在しなかったと考えている。ここには矛盾はないように思える。

我々はこう考えたい。所与それ自体が非存在であった時があったすれば、そもそも所与は与えられなかった可能性があるということである。例えば、ビッグバン時の時空の膨張速度がわずかに違えば、認識主体はこの宇宙に存在し得えなかった、といったような。我々は、祖先以前性の問題は、それが過去に関わるからではなく、認識主体が偶然的な起源を持つこと、よってその存在は偶然的であることをしめすことだと考える。

さて、科学が認識主体の存在が偶然的であることを主張することは、どのような帰結を持つだろうか。もし認識主体の存在は直接的に把握可能な事実であると思われるので、移行原理は認識主体の存在が偶然的であることを示すように思われる。

その一方、相関主義の公準はトートロジーであれ何であれ必然的な事実が存在する限り、認識主体の存在は必然的であることを示しているように思われる。よって、相関主義の公準と移行原理は両立し得ない。

科学の様相と根源的な様相

この結論から逃れる一つの方法は、偶然性や必然性にかんする言明には移行原理は適用できない、とすることだ。科学における偶然性や必然性は、本来的な意味での偶然性や必然性とは関係ない、と考えると上記の問題は回避できる。

しかし、この解決は行き過ぎた結論を導くように思われる。例えば次のような科学的言明を考えよう。

  • 高電圧電流に触れると死亡する

この言明は厳密含意であり、必然性を述べている。しかし、偶然性や必然性についての言明に移行原理を適用しないのだとすると、この言明から

  • この(今目にしている)高圧線に触れると、死の危険がある

という推論を行うことができない。それどころか、なにか本来的に有意味な必然性命題がある限り、相関主義の公準から認識主体の存在が必然的であることが導かれる。私は高圧線に触れても死なないのである。この立場は、メイヤスーの言うところの「主観的観念論」(同p97)である。

このような立場に対するメイヤスーの批判は同p46以下で展開されている。一言でまとめれば、主観的観念論は超越論的主観性の「受肉」の可能性の問題を引き起こす。次のような言明を考えよう。

  • (かくかくしかじかの)脳活動が行われていれば、その生物は超越論的主観性を持つ

これはやはり厳密含意である。しかし移行原理が適用できないことから、ここから

  • 人間は超越論的主観性が存在する

を導出することができない。

これは一見、反自然主義者であれば好ましい状況であるように思われる。しかし、問題は移行原理が適用できないことにより、両者が全く無関係になることである。したがって、意識活動に相当する脳活動が存在するにもかかわらず、超越論的主観が存在しないこともありえてしまうし、頭におがくずが詰まっているのに超越論的主観性がある、という状況もありえる。

したがって、メイヤスーの祖先以前性の問題は相関主義者にたいして、少なくとも様相に関わる移行原理の明確化という課題を提起しているように思う。

まとめ

本論では、メイヤスーが提起する「祖先以前性の問題」についてのある種の解釈を提起した。この解釈では、メイヤスーの議論は認識主体の存在を必然的に含意する「相関主義の公準」と、認識主体の存在の偶然性を含意する「移行原理」からなる。この2つが両立しないことから、科学に対して虚構主義的な解釈を行う相関主義を批判した。さらにこの問題を回避するため様相命題が移行原理の対象にならない、という仮定を検討し、この問題は超越論的主観性の受肉の条件を説明できない、という難点がある。