思弁的実在論は科学の基礎を与えるか II – 無矛盾律の導出について

フランスの哲学者メイヤスーの「思弁的実在論」が、主張されているように現代の科学の基礎を与えるものであるかどうか3回に分けて考える。今回は「事実性の原理」から「無矛盾律」を導くメイヤスーの議論を考え、「事実性の原理」が自己論駁的ではないか、という疑問を提出する。

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  1. 思弁的実在論は科学の基礎を与えるか I ‐ 事実性の原理の導出について

事実性の原理から無矛盾律へ

まずメイヤスーの議論を確認する。事実性の原理は次のようなものだった。

あらゆる事物そして世界全体が理由なしであり、かつ、この資格において実際に何の理由もなく他のあり方に変化しうる

(カンタン・メイヤスー「有限性のあとで」p94)

メイヤスーはここから、次の「非理由に関する2つの存在論的言明」を導く(同p115)。

  1. 必然的存在者は不可能である。
  2. 存在者の偶然性は必然的である。

そして、矛盾した存在者がこの言明に反することを主張する。というのも、矛盾した存在者Xがあるとすると、Xはあらゆる矛盾した性質が成立するから、もしXが存在しなくなったとしても、Xが矛盾していることによりXが存在していることも同時に導かれる。よってXは常に存在することになり、必然的存在者である。しかし、これは上の1.に反する。(同p119の議論を改変)

事実性の原理の自己論駁性

上記のメイヤスーの議論を明確化することは難しいと思うが、そのことにはとりあえず関わらないで、そのまま認めてしまうことにしよう。つまり、われわれは事実性の原理から無矛盾律が導かれると仮定する。

ところで、無矛盾律は必然的になりたつのだろうか?

もし必然的に成り立つのだとすると、これは事実性の原理に抵触する。と言うのも、無矛盾律も世界のあり方には違いないからである。事実性の原理によれば、世界のあり方はなんの理由もなく他のあり方、つまり無矛盾律が成り立たない世界に変化し得るはずである。

この難点を回避するには、2つの道があるように思う。一つは事実性の原理を存在論的言明に限定することであり、もう一つは無矛盾律の必然性を拒否することである。

存在論的言明に限定された事実性の原理

上記の事実性の原理の自己論駁性は、無矛盾律に事実性の原理が適用される、と考えたことから生じる。しかし、上記同p115ではメイヤスーは事実性の原理は存在についての原理であるかのように語っている。つまり、事実性の原理は必然的存在者を排除する原理であって、必然的命題を排除するわけではないと考えているようである。無矛盾律が何かの存在者の存在を主張するわけではないから、事実性の原理を存在論的言明に限定すれば、事実性の原理の自己論駁性は回避される。

しかし、存在論的言明だけでは十分な強さの無矛盾律を導くには不十分である。上記の無矛盾律の導出では、矛盾した対象はあらゆる性質を同時に持つとし、特に存在と非存在の性質を同時に持つとした。さて、「弱い」矛盾した対象Yを考え、Yは存在に関しては矛盾していないが、それ以外の性質についてはあらゆる矛盾した性質を持つとする。すると、Yに上記の無矛盾律の導出を適用することはできない。しかし、Yはほぼ矛盾した存在であり、このような対象が存在した状況を無矛盾律が成立しているということは難しいだろう。

なお、Yが性質Pとその否定を持つことから矛盾を導き、いわゆる爆発則からYの存在と非存在を同時に導くことが考えられるかもしれない。しかし、爆発則は無矛盾律を前提にしたものである。

無矛盾律の必然性

もう一つ、難点を回避する道がある。それは、無矛盾律が必然的に成り立つことを拒否することである。つまり、無矛盾律は今この世界では成り立っているが、次の瞬間には成り立たなくなり世界はカオスへと転落するかもしれない、と仮定する。

しかし、この仮定は上の1.に反する。というのも、1.は必然的存在者は不可能である、と主張している。よってどのような世界であっても、上の論証が成り立つ限り1.は無矛盾律を導いてしまう。つまり、無矛盾律は常に成り立つから必然命題である。

これを避けるには、必然的存在者はたまたま存在しないが、可能性としては存在する、と考えることはできる。しかし、必然的存在者が可能性としてのみ存在する、ということがあり得るだろうか。ある可能性のもとで必然的存在者が存在したとすると、それは必然的存在者であるからどのような状況でも存在してしまうのではないだろうか。

ややテクニカルだが、この疑問はS5という様相論理の体系では正当だ。S5の世界では、必然的存在者は存在する可能性があれば自動的に存在する。ただ、S5が成り立つかどうかは、メイヤスーが想定している必然性が何であるかに依存する。例えば、時間の問題に置き換えると、「時間にかかわらず存在する」といったものであればS5が成り立つが、「不壊性」のようなものであれば、不壊な対象がある時点で存在し始める可能性があっても、その時点以前では不壊な対象は存在しないかもしれない。

もう一つの問題として、そもそもメイヤスーの動機は祖先以前的な言明に意味を与えることだった。無矛盾律が必然的ではないとすると、これは可能だろうか。祖先以前的な言明を解釈するには、無矛盾律が人類が存在しないはるかな過去、人類が存在しなかったであろう世界線といったもの、要するに科学が言及するあらゆる事柄について無矛盾律が成り立つことが要求される。

すると、無矛盾律は無条件には必然的ではないかもしれないが、科学の領域では必然的である必要がある。これが事実性の原理の自己論駁を引き起こさないためには、事実性の原理が言及する必然性は無条件の必然性であり、科学の領域に関する必然性ではない、とするしかない。

しかしそうすると、今度は科学の領域においては無矛盾律の導出が機能しないことになる。というのも、無矛盾律の事実性の原理からの導出は、その領域において必然的な存在者ないし性質が存在しないことを前提にしていたからだ。これはメイヤスーの企てが失敗していることを示している。

まとめ

本稿では、メイヤスーの事実性の原理が自己論駁的ではないか、という疑いを考えた。また、この自己論駁性を回避する方法として、

  1. 事実性の原理を存在論的言明に限定する
  2. 無矛盾律の必然性を要求しない

の2つの方法を考えた。しかし、いずれの方法を採用したとしても、メイヤスーが要求するような、科学の基礎づけとなるような無矛盾律は得られないことを示した。

思弁的実在論は科学の基礎を与えるか I ‐ 事実性の原理の導出について

フランスの哲学者メイヤスーの「思弁的実在論」が、主張されているように現代の科学の基礎を与えるものであるかどうか3回に分けて考える。今回はメイヤスーの議論の核となる「事実性の原理」について、その導出を検討する。

思弁的実在論と相関主義

ここでは、思弁的実在論とは

対象の数学化可能な性質は…その性質は私がその対象と関係を持とうと持つまいと、私が思考するその対象の中に実際に存在している

(メイヤスー「有限性の後で」p13)

という立場を擁護するメイヤスーの議論のこととする。思弁的実在論という言葉は、ここから意味が拡大して、これまでの大陸哲学の人間中心主義的な傾向を批判すると称する哲学者一般を指すこともあるが、ここではメイヤスーの議論に意味を限定したい。

思弁的実在論が目指すのは、「相関主義」の批判だ。メイヤスーは相関主義を次のように定式化する。

相関主義とは、主観性と客観性の領域をそれぞれ独立したものとして考える主張を無効にするものである。私たちは主体との関係から分離された対象「それ自体」を把握することは決してできないと言うのみならず、主体はつねにすでに対象との関係に置かれているのであって、そうでない主体を把握することは決してできないということも主張する。

(同p16)

簡単に言うと、相関主義とは人間と独立した客観的事実はない、と考える立場である。一見客観的に見える科学的事実は、単に「権利上誰もが実験によって検証な可能な」(同p15)事実であって、(科学者)共同体の一致によって定義されており、やはりその存在が人間の存在に依存している。

メイヤスーは現代哲学はこの相関主義によって覆い尽くされていると考えている。分析形而上学などは実在論的な傾向が強いので、これは当てはまらないのではないかと思うが、それはここで議論したいことではないので省く。

相関主義批判 ― 祖先以前性の問題

メイヤスーはこの相関主義を批判する。批判の鍵になる概念が「祖先以前性」である。ある事実が祖先以前的とは「人間という種の出現に先立つ ― また、知られうる限りの地球上のあらゆる生命の形に先立つ ―」(同p24)ことを言う。現代の科学は例えば「地球は46億年前に誕生した」などの、祖先以前的な事実に関する言明を大量にしているのだが、そのような言明を相関主義は正当に解釈できるだろうか。

メイヤスーは、相関主義は「地球は46億年前に誕生した」という事実そのものを認めることはできないと考える。というのは、事実は人間とは独立したものではないからだ。そこで、相関主義に立てば、上の命題は「現在の科学者たちの共同体は、地球は46億年前に誕生した、と考えるに足る客観的な理由を持っている」と解釈される。(同p32を一部改変)

メイヤスーはこの解釈は「明らかに支持できない」とする(同p34)。科学者は「ある測定が科学者全員に対して妥当なものであるかを証明するために測定を行うのではない」(同p35)。もし地球形成年代それ自体が意味をもたない、とすると「測定の客観性は、意味も利得もない空っぽのものとなり、もはやそれ自身をしか指示しなくなる」(同p35)。

この議論が妥当であるかはここでは議論しないが、いずれにせよメイヤスーはある問題提起をする。それは「私達がいようがいまいが存在するものを知ること」(同p51)が可能であることを示す(メイヤスーによれば、過去2世紀の哲学がそのような可能性を否定していたにもかかわらず)という問題である。

事実性の原理

では、メイヤスーはどのようにして「私達がいようがいまいが存在するものを知ること」が可能であることを示すのか。それは「事実性の原理」というある原理が「絶対的」つまり「私達がいようがいまいが」成り立つことを示すことによって、そしてここに全科学を基礎づけることによってである。

では「事実性の原理」とはなにか。それは

あらゆる事物そして世界全体が理由なしであり、かつ、この資格において実際に何の理由もなく他のあり方に変化しうる

(同p94)

という主張である。当然に起こる疑問として

  1. このような主張がどのようにして絶対的に(つまり人間の存在と無関係に)成り立つと言えるのか
  2. この原理が科学の基礎にどのようにしてなり得るのか
  3. 何の理由もなく世界が他のあり方に変化しうるのなら、物理法則はどうなってしまうのか

などがありそうだ。1.に関しては今回の投稿で検討する。2.については、実際には人間とは無関係な「事物」が存在するということ、また無矛盾律(矛盾した主張は成り立たないという論理学の法則)をメイヤスーは導いているに過ぎない。これについては今後の投稿で議論する。3.をメイヤスーはヒュームの問題と呼んでいるが、この問題についてメイヤスーが与えている解決についても今後、論じていきたい。

相関主義から事実性の原理へ

では、メイヤスーは事実性の原理をいかにして(しかも人間の存在がその成立とは無関係であるやり方で)導出するのだろうか。

メイヤスーは死後の世界の存在に関する問題に置き換えてこの問題を論じる(同p95)。まずメイヤスーは死後の世界を認める論者と、認めない論者の二人を想定し、論争させる。次に相関主義者を登場させる。相関主義者によれば、そもそも私の存在しない世界についてなにか知ることはできない。よって、死後の世界の存在は決定不可能である。

しかし、この議論には疑問がある。というのも、この議論は死後には私は消滅すると仮定しているからだ。つまり暗黙のうちに死後の世界を認めない前提に立っている。というわけで新しい論者が登場する。「主観的観念論者」である。主観的観念論者は相関主義者の立場を批判してこう考える。私の存在しない世界は思考できない。とくに私が存在しない、という自体を思考することはできない。よって、私が存在しなくなるという事態も思考するはできない。よって、私は不死である。

もちろんこの議論は(特に相関主義者にとっては)受け入れがたい。相関主義者が主観的観念論者に反論するとすれば、よって「私が存在しなくなること」は思考可能でなくてはならない。そのためにメイヤスーが持ち出すのが事実性の原理である。

私は自分を、存在している理由を欠くものとして、このように存続している理由を欠くものとして思考している

(同p98)

つまり、「私の存在の理由のなさ」を私は思考している。「私が存在しなくなることがどんなことか」は思考できないが、「私が存在しなくなること」自体は、「私が存在している」ことの理由のなさを通じて思考している、というわけである。

しかし、ここで最後の論者である「思弁的哲学者」が登場する。思弁的哲学者によれば、この事実性の原理は単に我々の無知を表わしているのではなく、絶対的な(私の存在と無関係に成り立つ)ある事実を表わしている。それは「私の状態が他のどんな状態にでも変わるという、理由を欠いた可能性の移行」(同p99)である。したがって、私は全く理由なく任意に、存在することもできるし、消滅することもできる。これは私が知らないだけでなく、現実的な変化としてそうである。

なぜこう主張できるのだろうか。それは相関主義者が主観的観念論者に論駁するのが「私たちを無にしたり根本的に変化させたりできる<別様である可能性>を思考できる、という事実によって」 (同p99)である。この別様である可能性が私に相関的であることはあり得ない。というのは、この可能性には私が存在しない可能性も含まれており、この事実が私の存在に依存しているならば、このような可能性自体が成り立たないためである。

こうして、われわれは絶対的な事実、つまり「事実性の原理」にたどり着くことができた。

論証の検討

と、議論をたどってきたわけだが、これはどのような種類の論法だろうか。というのも、通常の演繹的な推論であるとは考えられないからだ。あらかじめ受け入れられた前提から出発する、というスタイルはとっていない。もちろん帰納的推論でもないし、アブダクションでもない。あり得るとすれば、ギリシャ的な意味での弁証法であると思う。つまり、相手の暗黙の想定を問答によって明示し、それに批判または同意を求めていくというスタイルだ。

つまり

  1. 有神論者 vs 無神論者 (最初の二人)
  2. 相関主義者(不可知論者) ― 死後の世界の可知性が前程されていることを指摘し、二人を批判する。
  3. 主観的観念論者 ―相関主義者が矛盾している、つまり私が存在しない世界の思考可能性を仮定してしまっていることを批判する
  4. 強い相関主義者 ― 主観的観念論者に私が存在する外部の理由がないことを指摘し、「私が存在する理由がない (事実性の原理)」ことの思考可能性から、私が存在しないことの思考可能性を主張する。
  5. 思弁的哲学者 ― 強い相関主義者が仮定する事実性の原理が、認識の可能性に関するものではなく、実際の可能性(形而上学的可能性)であることを指摘する。

しかし、この論法には問題があるように思う。ソクラテスが美について智者たちと問答し、結果として美を規定する本質が得られなかったという話がある。では、美には本質がないのだろうか。ソクラテスはむしろ智者と称していた人は本当は智者ではなく、美について無知だったと考えた。メイヤスーの問答では、相関主義者は相関主義者が受け入れがたい結論、つまり絶対的な事実の存在、を受け入れざるを得なくなった。このことは、事実性の原理が絶対的な事実であることの論証というよりも、相関主義者が智者ではなかった、つまりこの議論は単なる相関主義者の論駁である、と捉えることべきであるように思う。

ここでの疑いは、メイヤスーは簡単な誤謬推理に陥っているのではないだろうか、ということだ。つまり、背理法を試みながら、背理法の結論をそのまま議論の結論としてしまっているのではないか、という疑いである。

背理法とは、次のように行われる。まず反駁したい主張Xがあるとする。すると

  1. Xを仮定する
  2. YがXから含意される
  3. YはXに反する
  4. よって、Xは誤りである

と議論が進むのが背理法の一つの形である。しかし、簡単な誤謬推理として

  1. Xを仮定する
  2. YがXから含意される
  3. YはXに反する
  4. よって、Xに反するYが(無限定に、仮定抜きで)示された

というものがある。

メイヤスーの場合も次のような議論を行っている疑いがある。

  1. 相関主義を仮定する
  2. 事実性の絶対化が相関主義から含意される(同104ページ)
  3. よって事実性の原理が絶対的に示された

しかし、事実性の原理は相関主義とは矛盾するはずである。したがって、ここで言えたのは事実性の原理ではなく、相関主義が誤っていることの証明である。正しく背理法を用いると、

  1. 相関主義を仮定する
  2. 事実性の絶対化が相関主義から含意される(同104ページ)
  3. 事実性の絶対性は相関主義と相入れない
  4. 相関主義は誤りである

もちろん、メイヤスーが誤謬推理に陥っているとは、必ずしも断定できない。相関主義の主張の一部、特に「強いモデルの第2原理」(同p68)には同意しており、そこから事実性の絶対性を導いている可能性があるからだ。しかし、強いモデルの第2原理はあらゆる絶対性を否定しているのだから、これまた矛盾した主張にすぎない。メイヤスーは「事実性の絶対性」を「強いモデルの第2原理」に起源を持つものの、別個の考えとして提示しているのだ、と考えることもできる。例えば、素朴実在論や主観的観念論者を論駁する際には、ある種の「決断主義」を持ち出している(同p67, p104など)。これらをわれわれは取らないことにすると決める、というわけだ。しかし、これは何の議論にもなっていない。

私の個人的意見としては、相関主義者は最初から間違っており、死後の世界は実際に存在するかしないかのどちらかだと考える。また、メイヤスーが行っている議論は

  1. 何を知り得るか、という知識に関する様相
  2. 何が将来起こり得るか、という時間に関する様相
  3. 何が必然的に起こるか、という形而上学的な様相

の3つがややこしい仕方で混同されているように思う。

事実性の原理そのものの検討へ

今回は、事実性の原理の導出について検討した。次(の哲学テーマの投稿)では事実性の原理そのものが自己論駁的ではないか、という疑いについて論じる。

正義の実在性について

 

正義の実在性のある論証

本稿では「正義が実在する」という主張を考える。実在するとは、人間から独立して存在する、ということとする。また「存在する」がどういうことかはここでは深く考えないことにする(が分析形而上学の「標準理論」によって、我々がコミットしている理論の量化の範囲に入っているもの、と考えてもらって良い)。また、実在する、という立場に対立する立場として、唯名論(人間の作り出した単なる名前に過ぎない、つまり名前が指す実体はない)という立場を考える。

正義の実在性を主張する論拠はいろいろあるが、ここで考えてみたいのは次のような議論だ。

もし正義が実在せず、単なる記号であるとするなら、そのような正義に従おうとする人々の気持ちは薄れてしまうだろう。つまり正義の正当性が毀損されてしまう。よって正義は実在する。

しかしこの論証にはいくつかの問題がある。

問題点1 – 規範言明からの事実言明の導出

まず、「正義は従われなければならない」という規範に関する言明から「正義は実在する」という事実に関する言明を導いている、という問題がある。通常、規範に関する言明と事実に関する言明は独立していると考えられる。例えば、「殺人はあってはならない」から「殺人は存在しない」は導かれない。「人は猿から進化した」と考えると人間の尊厳が失われるから、進化論は誤りだ、という主張もそうである。上述の議論は、これらと同様の議論の構造を持っている。

問題点2 – 「実在」と「存在」の混同

また仮に、もし「正義は従われなければならない」から「正義は存在する」が導かれたとしよう。しかし、「存在する」から「実在する」は必ずしも導かれない。「正義は存在するが、人間社会にその存在が依存している」だとしても、人々が人間社会の存在を重要視している限り、その重要性は毀損されないはずである。

問題点3 – 「実在」と「不変性」の混同

ではなぜわざわざ「実在している」と主張しないと、正義が毀損されてしまうように感じるのだろうか。おそらくここで「実在」と「不変性」が混同されている。つまり、正義の存在が社会に依存しているとすると、社会が有り様を変えれば、正義は変わってしまうように思われるし、もしかすると、社会の恣意的な決定によっても、正義が変更されるように感じられる。そのような正義にはコミットする気が起きないかもしれない。

確かに、例えば人間社会に存在が依存しているとすれば、人間社会が消滅すれば正義は消滅することになる。しかし、人間社会が消滅した未来で正義が毀損されたとしても、何も問題はないであろう。一方で、正義が人間社会に存在が依存していることは、正義の中身が人間社会の意のままに変更できる、ということではない。例えば、私が自転車に乗るスキルは、私にその存在が依存している。しかし、一旦獲得されたこのようなスキルは、原則として忘れられることはないし、変更も効かない。同様に、私の母語に関する知識などもそうであろう。

間主観的な対象としての正義

さて、「正義は実在である」という議論を批判してきたわけだが、では正義はなんなのだろうか。ここでは存在を、存在が主観に依存する主観的対象、複数の主観に依存する間主観的な対象、そして主観に依存しない客観的な対象の3つのドメインに分けようと思う。(このような考えは哲学では歴史あるものだと思うが、誰によって広められたかよく分からないので、教えてほしい。ドメインという言葉は生物学から借りてきた。)明らかに、正義は2つ目のドメイン、つまり間主観的な対象のドメインに入る。正義は人間社会に存在が依存している。

さらに、正義は唯名論的に理解できると思う。つまり、人間社会があって、一定の仕方で「正しい」という言葉を使っていたとすると、それで人間社会に正義の概念を帰属するに十分である。記述の便法として正義という存在者を仮定してもよいが、究極的には記号とその運用能力だけを仮定すれば良い。

このような仮定をおいたとしても、正義にコミットする動機が失われるわけではない。正義が人間社会の存続に不可欠である限り、また人間社会の存在にコミットするべきである限り、正義にコミットする動機が存在する。

一応追加で述べておくと、正義の存在論的身分にかかわらず、正義にコミットしないことを決めている「ニヒリスト」を想定することができる。このような人にとっては、正義は最初から毀損されており、正義の実在論は無力である。

謝辞

本稿は阿蘇の史さんとの個人的議論から出発している。ここに感謝する。もちろん内容はすべて私が責任を負うものである。また、分析形而上学については倉田剛「現代存在論講義」を参考にした。