正義の実在性について

 

正義の実在性のある論証

本稿では「正義が実在する」という主張を考える。実在するとは、人間から独立して存在する、ということとする。また「存在する」がどういうことかはここでは深く考えないことにする(が分析形而上学の「標準理論」によって、我々がコミットしている理論の量化の範囲に入っているもの、と考えてもらって良い)。また、実在する、という立場に対立する立場として、唯名論(人間の作り出した単なる名前に過ぎない、つまり名前が指す実体はない)という立場を考える。

正義の実在性を主張する論拠はいろいろあるが、ここで考えてみたいのは次のような議論だ。

もし正義が実在せず、単なる記号であるとするなら、そのような正義に従おうとする人々の気持ちは薄れてしまうだろう。つまり正義の正当性が毀損されてしまう。よって正義は実在する。

しかしこの論証にはいくつかの問題がある。

問題点1 – 規範言明からの事実言明の導出

まず、「正義は従われなければならない」という規範に関する言明から「正義は実在する」という事実に関する言明を導いている、という問題がある。通常、規範に関する言明と事実に関する言明は独立していると考えられる。例えば、「殺人はあってはならない」から「殺人は存在しない」は導かれない。「人は猿から進化した」と考えると人間の尊厳が失われるから、進化論は誤りだ、という主張もそうである。上述の議論は、これらと同様の議論の構造を持っている。

問題点2 – 「実在」と「存在」の混同

また仮に、もし「正義は従われなければならない」から「正義は存在する」が導かれたとしよう。しかし、「存在する」から「実在する」は必ずしも導かれない。「正義は存在するが、人間社会にその存在が依存している」だとしても、人々が人間社会の存在を重要視している限り、その重要性は毀損されないはずである。

問題点3 – 「実在」と「不変性」の混同

ではなぜわざわざ「実在している」と主張しないと、正義が毀損されてしまうように感じるのだろうか。おそらくここで「実在」と「不変性」が混同されている。つまり、正義の存在が社会に依存しているとすると、社会が有り様を変えれば、正義は変わってしまうように思われるし、もしかすると、社会の恣意的な決定によっても、正義が変更されるように感じられる。そのような正義にはコミットする気が起きないかもしれない。

確かに、例えば人間社会に存在が依存しているとすれば、人間社会が消滅すれば正義は消滅することになる。しかし、人間社会が消滅した未来で正義が毀損されたとしても、何も問題はないであろう。一方で、正義が人間社会に存在が依存していることは、正義の中身が人間社会の意のままに変更できる、ということではない。例えば、私が自転車に乗るスキルは、私にその存在が依存している。しかし、一旦獲得されたこのようなスキルは、原則として忘れられることはないし、変更も効かない。同様に、私の母語に関する知識などもそうであろう。

間主観的な対象としての正義

さて、「正義は実在である」という議論を批判してきたわけだが、では正義はなんなのだろうか。ここでは存在を、存在が主観に依存する主観的対象、複数の主観に依存する間主観的な対象、そして主観に依存しない客観的な対象の3つのドメインに分けようと思う。(このような考えは哲学では歴史あるものだと思うが、誰によって広められたかよく分からないので、教えてほしい。ドメインという言葉は生物学から借りてきた。)明らかに、正義は2つ目のドメイン、つまり間主観的な対象のドメインに入る。正義は人間社会に存在が依存している。

さらに、正義は唯名論的に理解できると思う。つまり、人間社会があって、一定の仕方で「正しい」という言葉を使っていたとすると、それで人間社会に正義の概念を帰属するに十分である。記述の便法として正義という存在者を仮定してもよいが、究極的には記号とその運用能力だけを仮定すれば良い。

このような仮定をおいたとしても、正義にコミットする動機が失われるわけではない。正義が人間社会の存続に不可欠である限り、また人間社会の存在にコミットするべきである限り、正義にコミットする動機が存在する。

一応追加で述べておくと、正義の存在論的身分にかかわらず、正義にコミットしないことを決めている「ニヒリスト」を想定することができる。このような人にとっては、正義は最初から毀損されており、正義の実在論は無力である。

謝辞

本稿は阿蘇の史さんとの個人的議論から出発している。ここに感謝する。もちろん内容はすべて私が責任を負うものである。また、分析形而上学については倉田剛「現代存在論講義」を参考にした。